お祖母さんの里子さんが台所で何か作っています。どうやら『おはぎ』のようですが。

路夫「おばあちゃん、ゴマのおはぎ作っているの?それ僕の大好物だよ。」

里子「これはお供え用に作っているんだよ。だから食べられないのよ。」

路夫「えー。お彼岸でもないのにどうしてなの?お墓にお参りに行くの?」

里子「お墓に行く訳じゃないけど、今日はお祖父さんのお父さん、つまりあなた達のひいお祖父さんの命日なのよ。」

路夫「えー!ひいお祖父さん!亡くなって何年になるの?」

里子「今年で確か二十八年かしら。」

路夫「そんな昔の事なのにまだお供えするの?今時そんなの流行らないよ。」

  「だいいち、お供えすると折角のおはぎが固くなっちゃって食べられなくなるでしょ。もったいないよ。」

里子「路夫、あなたは自分のお父さんやお母さんがなくなった時、もったいないからと言って何年かでお参りするのを止めてしまうのかい?」

路夫「それは・・。でもさ、もう大分たっているのだからお参りだけでもいいんじゃない?だってどうせ仏様は食べられないんだしさ。」

里子「それはそうかも知れないね。でも路夫は気持ち伝える時、どうすれば相手がわかってくれると思うかい?」

路夫「あいさつをする!お礼したり、プレゼントしたり・・」

里子「そうだろう?『礼』というのは相手に心を伝える事が大切なのよ。ひいお祖父さんはこの『ゴマのおはぎ』が大好物だったから、せめて命日の日にお供えして、今みんなが健康でいられることのお礼をしているのよ」

路夫「そうか。そういえば去年も食べたような気がする。」

里子「お祖母ちゃんは『おはぎ』より、ご先祖を大切にする心が無くなる方がよっぽど残念だけどね。」

路夫「わかった。」「僕もお参りしてもいい?」

里子「もちろん。それにあなた達の分もちゃんとこしらえてあげるわよ。」

路夫「本当?わーいやったぁ。ひいお祖父ちゃんありがとう!」

さて、こんな時論語では何ていうでしょうか?

 

『賜や女は其の羊を愛む。我は其の禮を愛む』

   (仮名論語P30 八佾第三)

 

解説

 今は何でも合理的、つまり現在の『りくつ』に合わせて物事を判断する事が多くなっているよね。省エネとかもったいないとか言って何でも省略するのが現代風であたり前と思っている人がたくさんいます。

 確かにそれも良い事だけど、省略してはいけない事があります。それは『礼』です。礼は相手を大切に思う心、尊敬する心から生まれます。でも心って見えないでしょ?だ

から心を形にしたものが、お供えだったり、お土産だったり、プレゼントだったりするのです。物をもらうってうれしいものです。

 それが、時間が経つと『形』ばかりが残って最初の「何のためにするのか」がどこかへ行ってしまい、要らない事のように思ってしまうのです。でも、形まで無くなってしまったら、それこそ最初の気持ちも全く残らなくなってしまいます。

 いろいろな「しきたり」にはもともとの意味があり、形を残す事で、最初の気持ちを忘れないようにしているのです。