秋の遠足から路夫君が帰ってきました。
    路夫「お母さん、聞いて聞いて」
    論子「どうしたの?何かいいことがあった?嬉しそうね。」
    路夫「今日の裏山登山でさ、友君がきれいな赤い葉っぱを見つけてね。お母さんにお     土産にするんだって言って枝を折ろうとしたんだよ」
    論子「それで?」
    路夫「それで僕さ慌ててそれを止めたんだよ」
    論子「そうね、山の木を傷つけるのはよくないわね。」
    路夫「それもあるけどさ。お母さん僕、二週間前にお父さんと裏山へ行ったでしょ?」
    論子「あぁ、そうだったわね。」
    路夫「その時にもその木を見てきれいだなと思って枝に触ろうとしたんだ。」
論子「それで?」
路夫「その時にお父さんがその枝にさわっちゃいけないよって言ってね。」
路夫「どうしてって聞いたらさ、その木は『うるし』の仲間の木だからだよっていったの。」
論子「まぁ、そうなの」
路夫「それから、『図書館に行って図鑑で調べてごらん』って言われたから調べてみたよ。そしたらその木に触るとかぶれてすごく大変なことになるって書いてあった。」
論子「そう。それで」
路夫「僕さ、色々調べるのが好きで良かった。それで友君に教えてあげることができたんだもの」
論子「そうね。勉強したことが人の役にたつって素敵なことね。」
路夫「うん。僕、すごくうれしくて幸せな気持ちになったよ」。
 
さてこんな時、論語ではなんていうでしょうか。

 

                                                        よろこ

    學びて時にこれを習うまた説ばしからずや。

伊與田先生訳

聖賢の道を学んで、時に応じてこれを実践し、その真意を自ら会得することができるのは、なんと喜ばしいことではないか。

 

解説

昔の学校は寺子屋と言いました。そこでは自分の名前を書けること。近くの地名が読めること。数の数え方など、読み、書き、そろばん(足し算と引き算)を教えていました。
 それは生きていく上でとっても重要なこと。
その中で、よく字が読めて、いろいろな本を読んで物知りな人は、それをいろんな人に教えてあげていました。まわりの人は解からないことを聞きに来て、その人はとっても尊敬されました。
 勉強は自分一人のためにするのではなく、その知識や経験を人のために役立てて初めて物事を本当に知ったことになるんだよ。
 そして、たとえ褒めてもらえなくても、それで人の役に立てたら、自分の心がほんわかと温かくなって、とってもうれしい気持ちになると思いませんか。